ああ、また段差だ。
憂鬱な気分になった。
今日限りなのにしんどかった。
昨日の夜は眠れなかった。
京都最後の夜でなんとなく気分が高まって眠れなかった。
だから、早起きして始発に乗った。
一つ20キロほどあるスーツケース二つとリュックサック二つを持って帰った。
とてもじゃないけど持ち上げられる重さではない。
バスに乗るのも億劫で、一つずつスーツケースをあげないといけなくて、手間取る私に周りの視線が痛かった。
いつも駆け上がる階段は使えない。
エスカレーターも厳しい。
エレベーターを探し回るも、混み合っていて電車を二本も逃してしまった。
電車を降りたら降りたで大変で駅の点字ブロックはいちいちスーツケースのタイヤの滑りを邪魔して、わずかな段差はスーツケースを持ち上げなければならず、上りの坂道は絶え間なく後ろにすべり出そうとするスーツケースが重く重くのしかかる。
歩道橋の階段が使えないから歩くのも大変なのに回り道をしなければならない。
そして、この例えは正しくないかもしれないがこれは普段車椅子の人が体験していることなのではないだろうか、と考えたのである。
自分の体はない車輪の性能に合わせて道を選び、周りに気を使い、進み続けなければならない。
少しの階段や段差があれば回り道をしてスロープを探したり別の入り口を探さなければならない。
私は二つの重たいスーツケースを引きずって旅をすることで、普段自分の走り回る世界がなんと脆いことかと思った。
この二本の足が使えなくなったら、なくなってしまったら、毎日が重たいスーツケースを二つ引きずって歩くように車輪に支配されて依存するしかなくなるのか。歩いてる時は気づかない段差にいちいち翻弄されてしまうのか。
私は二つのスーツケースを両手に一生懸命歩き回る中で、車椅子用のスロープを使い、ドアを開けるのにも一苦労。
スロープがあった時の安堵と嬉しさと、
なかった時の落胆と疲れを思い知った。
今回は私を煩わせた点字ブロックもきっとあることで安堵し、安心して歩ける人がいるのだ。
それなのに点字ブロックはそんなに多くはない。
信号が青になる時に鳴り響く音楽も誰かの道しるべになるのだ、と。
すべてのバリアフリーに意味がある。
そんな当たり前のことを、この身を持って感じた帰省道中だった。