紋浪ちゃんの覚え書き

気になることとか拙い和訳とか

「新しい」を爆破したい。

 

私が今嫌いな言葉は5個ある。

 

ズーム、隔離、マスク、ソーシャルディスタンス、オンライン

 

の5本立てである。

 

この言葉を私の前で口にした人間は、奇声を上げて暴れる私に拉致されて激しい拷問の末に殺されるのだ。

 

遺体は残らずに跡形もなく消える。

 

まさに令和の怪事件である。

 

…悪ふざけはよそう。

 

今の私は本気でやりかねない。

 

が、この5つの言葉以外に嫌いなのが、

新しい〇〇ってやつだ。

 

てめーだけはぜってーにゆるさねえ。

 

という覚悟を持って私は今日深夜なのにこれを書いている。

 

書くまでは寝れないのである。

 

このコロナで、旅行業界やら、航空業界、そしてエンタメ業界みんな大変なのはわかる。

 

それから、いろんな教室とかセミナーとか。

 

ほんとーにいろんなことができなくなってしまった。

 

かわりに何が出てきたか。

 

オンラインである。

 

「○月×日に予定致しておりました、〇〇は新型コロナウィルス感染拡大の防止のため、

オンラインでの開催となりました。」

 

っつー文面を見るたびに私は服をそこら中に脱ぎ捨てて暴れまわりたくなる。

 

でもまあ、それは仕方がないのかもしれない。

 

確かに日本は毎日感染者が何百人と出てるし、

そりゃ感染対策は必要かもしんない。

(私の意見は別として)

 

でもな!

そのオンライン化や、ショートカット化を

「新しい〇〇」「次世代型〇〇」とか都合よくラベリングして開き直る風潮。

 

てめえだけは絶対に絶対に、

ぜってーに許さねえからな!!!

 

と、私は主張したい。

 

百歩譲って、

 

「すんません。コロナのせいでいつも通りできませんでした。でもこっちも商売なんで食い繋がないとあかんのです。

 商売存続のためにもこういう形を模索してます。」

 

みたいなんだったら、

 

じゃあしょうがねえなあ。

 

って思えるかもしんないさ。

 

「いつかはかならず元に戻すぞ」って覚悟は見せて欲しい。

 

もうそれに尽きる。

 

あれだけ持ち上げられてたzoom飲み会だって、

今誰もやってねーだろ。

 

新しい飲み会の形

 

とかなんつって、散々持ち上がられてたくせに、居酒屋が開けばみんなさっさと居酒屋に戻った。

 

わかるよ。

 

わかる。

 

私は当初からこのzoom飲み会なるものが大嫌いだった。

 

絶対拒絶の姿勢だったのだ。

 

特に男女でzoom飲みをする人たちには一層理解不能であった。

 

「いや、この後どうこうなれる可能性が。

夜とアルコールに流される可能性がパーフェクトで0の男女の飲み会になんの意味があるんだ!!!」

 

と絶叫して終わった。

 

 

結局居酒屋は開いて、私が住んでる大阪の飲み屋街は生き返り、持ち帰る男と持ち帰られる女が今日も元気に路上でいちゃついたり、ゲーゲー吐いたりしている。

 

私は「しょうがねえなあ」と思いながらそれを見てる。

 

結局、zoom飲みなんてものは「新しい飲み会の形」なんかではなくて、

「その場しのぎの臨時代替案」に過ぎなかったのだ。

 

「新しい〇〇」とか「次世代型〇〇」と言われると、

 

なんだかそれが良いこととか、凄いもののように感じてしまう。

 

でも、私はそういう言葉に非常に違和感を覚えるのだ。

 

オンライン開催とか、オンラインツアーとか、

 

そういうのを見る度に、

 

もしもインターネットがなければ、人々はもっと必死になってコロナを終わらせて死に物狂いで生活を取り戻すために戦いにいったのではないだろうか、と考える時がある。

 

オンライン開催とか、オンラインセミナーとか、そういうのってやった感あるもんね。

 

でも、オフラインで開催した時にだけ出会える隣に座った同業者とか、新しい知り合いとか。

そういうのには絶対出会えない。

 

だけどそういうのが1番大事だったりする。

 

オンライン、簡素化で「やった感」をだして、

その「やった感」で世界は「回った感」が出てくる。

 

でも、「やった感」と「回った感」で人の心が満たされるなら、この心の中を塞いでしまっている鬱屈とした感情はなんなのか。

 

でもこの「回った感」に騙されて、

みんな「回ってる」と勘違いして、もしくは現実を見ないフリをして政府や開催側は話を進めてしまう。

 

私たちは永遠に元の世界を取り戻すことができないのだ。

 

この最中で、コンサルタントのなり損ないや、胡散臭いインフルエンサーが、

 

 

「オンライン開催に対応してこなかった業界が悪い」だの、

「これからの時代オフィスも通勤も不要」

 

なんてほざいてると全員並べて散弾銃で射殺したい衝動に駆られる。

 

 私たちは、唯々諾々と誰かに言われるがままに「新しい」という言葉でラッピングされた現状を受け入れるしかないのだろうか。

 

私はそうは思わない。

 

オンライン開催のコンサートでは、ペンライトの光で彩られたアリーナの景色を大好きな存在に見せられない。

 

オンライン開催の落語会では、

名前も知らない隣の客と笑いを共有することはできない。

 

オンライン開催のセミナーでは、

講師も録音を恐れて言葉を厳選するから、オフラインなら聞けたついこぼれ落ちる裏話や小ネタなんかを聞くことはできない。

 

オンライン開催の海外旅行なんて、

匂いも感触も何もない。

そんなものは旅行じゃない。

 

 

もちろん、業界やエンターテイナーが生き残りや今の現状を凌ぐために知恵を絞った企画もあるだろう。

 

私はそこを否定したいとは全く思わない。

 

 

ただ、誰も責任を取りたがらず、だらだらと「新しい」という言葉に逃げ込んでこの現状からみんなで出口を見失っているような今の状況に全力でNOを突き付けたいのだ。

 

私たち一人一人が、取り戻したいものが必ずあるはずだ。

 

「やった感」では、その場しのぎでは、

 

私たちの心は満たされないし閉塞感だけが地層のように積み重なって硬く硬くなっていき傷は深まるばかりだ。

 

無駄

 

の2文字で片付けられるようなところに大切なものはあった、と悔恨に苛まれる毎日だ。

 

私たち一人一人が覚悟を持ってこの騒動を終わらせたいと強く願い

 

全員が覚悟を持ってリスクを背負いながら、一歩ずつ歩き出さなければいけない。

 

私はこれ以上「新しい」なんていらないのだ。

 

新しいよりも大切なことは、

 

無駄なこと。

「やった感」の裏に葬られてしまった私たちの1番大事だった繋がりを取り戻していくことだ。

 

オンラインでは感じられない、熱気を、興奮を、大切な人の温もりを。

 

取り戻すためにも覚悟を決めて、歩き始める時が来ているのではないかと思う。