にーはお。
私です。
帰国を控えて準備してるものの一向にパッキングが進まず死にそうになってる紋浪です。
さてさて、今回のお話は私がバックパックを終えて北京で三日間暇を潰していた頃のお話。
46時間に及ぶ大移動を終えてふらふらになって北京について宿に着いた私は死んだように懇々と眠った。
宿は素敵なところだった。
こんな感じの、中国の古民家である四合院を改造して作ったというドミトリー。
本当に素晴らしかった。
1日目は眠り続けて2日目も死んでいて、3日目にようやく回復したので暇で暇でしょうがない私はどこにいくか考えていた。
いや、正確にいうと迷っていたのだ。
私は兼ねてから行ってみたい場所があった。
その場所の名は、盧溝橋。
日中戦争、中国語で抗日戦争開戦の地である。
軽い気持ちで行こう行こう、とバックパックを計画していた当初は考えていたが、
旅の間中国人の優しさや温もりに触れるたびに行きたくなくなってきた。
この優しさの根元に、この優しさを投げ出してくれた人たちと私の国との血濡れた歴史があることを忘れてなかったことにしてしまいたい。
大好きな北京で頤和園とか天安門広場とか万里の長城とか故宮とかそんな大好きな場所だけ抱きしめていたい。
同じ北京にある、中国最大の反日施設、中国人民抗日記念館、そんなもの見たくなかった。
でも。どうあがいても行かなければならないと思って、緊張した気持ちで地下鉄を乗り継いでバスに乗った。
最寄りの駅に着いた時から自分が日本人だとバレないように口をつぐみ足早に歩いてバスに乗り込んだ。
中国人民抗日紀念館、そして盧溝橋につながる大きな門。
気のせいか空気が静かでお土産物屋さんには旧日本軍の人形や無数の中国国旗がはためいている。
写真を撮るのも忘れて歩いて、歩いていくとどっしりとした博物館にぶつかった。
入っていくと、
犠牲になった人を悼むモニュメントや、
中国の歴代の指導者たちの日中戦争に対する思いが記されていた。
そこから先は、写真を撮ることができなかった。
とにかく怖かった。
あまりにも残酷な写真や、記述が多すぎて、耐えられなくなった中国人は大きな声で日本人を罵っていたし。
泣き出す人もいた。
本当に悲惨なことが多かった。
お母さんを殺されて、それを知らずにお母さんに寄り添う赤ちゃん。
暴行された後の女の子の虚ろな顔。
ぐちゃぐちゃにされた遺体。
書けばきりがなくて。
でも、私が1番心に残ったのはこの写真だった。
日中戦争当時、日本での発表を許可されなかった不許可写真である。
私が学校で習った時、この写真は日本人捕虜の写真とされていたが、
この資料館では、日本人が上海で中国人を処刑している写真とされていた。
多分それが全てだと思う。
日中戦争収束の後、中国は国民党と共産党による泥沼の内戦状態から、毛沢東による大躍進政策の失敗、文化大革命と混乱の時代に入ってきちんとした調査がされて蓋がされた歴史、それこそが日中戦争。
時間が経ちすぎて、もはや何が本当なのか何が嘘なのかわからなくなってしまって悲しみと痛みだけが残ってる。
だから、私はこの資料館の全ては信じはしない。
だけど、東京大空襲や原爆投下を見る私たちの痛みや恐怖は海の向こうからやってきた存在が自分の国を焼いて沢山の人を殺したというもので。
でも場所を変えたら、あの頃の中国人にとっては海の向こうからやってきて自分の国をめちゃくちゃにして大切なものを沢山奪った存在は日本人だったのだ。
明日明後日と続いていくと信じていた退屈で でも平和で優しさに満ちた誰かの日常をめちゃくちゃにして心に忘れられない傷を刻み、何もかもを奪い去ったのだ。
日本人が来なければ。
続いていった幸せな人々の生活があったのだ。
日本人はあの戦争を語る時、
大事な人が死んでしまった話、故郷が燃えた話。
その全てを被害者として語るけれど、ここ中国ではその歴史の上で私たちはまぎれもない加害者だった。
そしてあの戦争は中国では、中国が多大な犠牲を払い満身創痍になりながらも決して諦めず日本を筆頭としたファシズムを打倒した誇り高き勝利の歴史として存在している。
そこに存在する圧倒的加害者のファシズム国家こそが、中国人から見た当時の日本なのだ。
そして現在も愛国教育の名の下に脈々と受け継がれる根底にある常識なのだと思った。
資料館をでて盧溝橋に向かった。
大きな大きな立派な橋をゆっくりゆっくりと渡った。
1972年、日中友好条約締結の際当時の中国外交代表の周恩来はこう言った。
日本と中国の間に一時的に不幸な時代はあったが、我々両国の間には2000年の友好な歴史があるのだ。それを思えばその時代はほんの一瞬に過ぎないのだから、
と。
バスに乗り地下鉄に乗り、いろんなことを考えた。
本当にたくさんの優しい中国人に出会ってきた。
同居人や殷くん張くん、旅行学部のみんなに日本語学科のみんな。ボス、チャンさん。
その全ての人をとても遠くに感じた。
幸せな夢を見て眠っていたところに冷水を被せられて叩き起こされたみたいな気持ちで。
私と彼らの間にいきなり大きな大きな大きな川が現れて、渡ることができないような感覚。
それは、この中国生活が終わる間際の今になっても消えない。
どうしたらいいんだろう。
と、これからも考え続けなきゃならない。
この大きな川をなんとか漕ぎ出し、いったり来たり、沈没したりを繰り返しながら限りなく近づきたい。
私は許されたいわけではない。
謝りたいわけでもない。
自国の歴史を恥じて自己嫌悪に陥ってるわけでもない。
ただ、中国側のみんなが痛み乗り越えて、こちらに歩み寄ってくれてるのに何も知らずに乗っかるだけな生き方をこの先に絶対にしたくない。
私も同じように傷を負って、痛みを知り、両方の川岸からお互い手を伸ばし合うように共に努力をし続ける日本人でありたいのだ。
そんなことをぐるぐると1人で考え続けた1日だった。