「ようこそ中国へ。」
って、乾杯した北京のあの夜に戻りたいですよ。
私はボスのことを先生と呼んだ。
なんでそうなったかというと、北京のホイ族の家族の家に住んでいた頃、
初めてボスから電話がかかってきた時ボス自身が自分のことを、
「私が謝先生ですよー」
と中国訛りの日本語で言ったからだ。
その時私は地下鉄に乗っていて、大急ぎで家に帰ったら、その家のソファに優雅に座っていて人がボスだった。
「土山さんですか?こんにちは。
これから、よろしくおねがいしますねー」
といった。
で、その夜は一緒にご飯を食べにいった。
北京の街を案内しながら車を運転してくれた。
「これから先、あなたは人生の宝物みたいな時間が始まりますね。」
そう言われてワクワクしていた。
あの北京の夜、
次の日から山東省に行くと決まっていたあの日の夜。
私はなんだか自分がすごく可能性を秘めてるような気分で、見るもの全てが虹色だった。
初めてあったボスだったけど、私はこのおっさんのことがすぐに大好きになった。
優しかったし、外国語を使って仕事をして成功していて、憧れて尊敬した。
こんなに尊敬する大人に出会えたのは初めてで、やっぱり中国に来てよかったなあ。
私もこうなれるのかなあ、と漠然と思った。
まだ、中国に来たばかりで買い物もままならない私。
中国語もニーハオと謝謝くらいしかわからない。
心細くてたまらなかったけど、ボスの隣では安心ができた。
だって日本語を話してくれた。
ゆっくりゆっくり私が聞き取れるように中国語を話してくれた。
私の中国語を聞き取ってくれた。
山東にきて2週間、ボスは私の世話を焼いてくれた。
2週間経ってボスが北京に戻る時、私はボスと大事な約束をした。
「先生帰っちゃうんですか?こんな状態で私、先生なしでどうすればいいんですか?」
半べその私に、ボスは
「大丈夫ですよ。あなたなら大丈夫です。
頑張ってください。」
「本当に帰っちゃうんですか?」
「じゃあ、約束しましょう。3ヶ月、時間あります。3ヶ月で頑張って中国語話してください。
あなたならできます。私信じますよ?
私はすぐ戻ってきますから、頑張ってください。」
そうだ。
いつまでもボスに頼っていたら当初の目的の中国語がダメになる。
「3ヶ月かあ…」
それだけあったらもしかしたらなんとかなるかもしれないなあ。
ボスの言葉は当時の私にとっては魔法のようで、ボスができるといったからなんだかできるような気がして。
それからの私は必死だった。
同居人がやってきて、
張くん、殷くんがやってきて、
私の日常の中を中国人が大暴れ。
たまに心折れそうになることもあったけど、
そんな時はボスの言葉を思い出した。
3ヶ月がんばったら。話せるようになるんだ。
あの人をがっかりさせたくない。
あの人は私に期待してくれたんだ。
もちろんそれ以外にもモチベーションはあったけど、今思い出しても頭がおかしいあの努力の原動力は3ヶ月後ボスに会った時がっかりさせたくない、という思いが1番大きかったように思う。
そして、6月。
きっかり3ヶ月後にボスがやってきた時、
私はボスの期待にしっかり答えることができた。
3ヶ月前のあの北京のあの夜と同じように、
一緒にご飯を食べながら、ボスは私のことを褒めてくれた。
「3ヶ月よく頑張りましたねー。ほら?出来たでしょ?」
3ヶ月前と同じようにお酒を飲んで、いい気分だった。
でも、その日の夜ボスは私を帰そうとしなかった。
どうしても必要な書類を取りに来い、と言われてホテルの部屋に連れていかれた時、私はものすごくがっかりした。
ただ、その日は私の悪運の強さと私の酒の強さの勝ちだった。
最悪な気分で無事に帰宅した夜。
それでも、私はとにかく深く傷ついた。
「え、なにそれ。まじウケる。」
真夜中家に帰り着いて心配してくる同居人をよそにいつもの口調でそう言ってみたけど体の震えは止まらなかった。
中国に来て3ヶ月の間私を支えたのはボスの言葉で。
たまにかかってくるボスからの電話。
ボスの前で気を抜いたのは、別に気があったとかそんな意味はなかった。
この人だけは絶対的な安全地帯だと、完璧に信頼していた。
だって。
同居人をはじめとしてろくすっぽ中国語も話せないうちから中国人の中に放り込まれて、言いたいことも言えなくて困ってる私。
遠くにいても近くにいても頼れるのはボスしかいなかった。
それなのに、この人は私をどう見ていたんだろうか。
私が尊敬し、期待をかけてくれた、と思って必死の努力をしていたころ、ボスは私をどう思ってたんだろう。
いつからそんな対象にされてたんだろう。
それから、上海,福建,桂林,北京と果てしない攻防を繰り広げて疲れ果てて。
頑張ってやってきたのに。
ボスは棗庄に再び現れた。
それが前回二つの追いかけっこだった。
http://tokyosb.hatenablog.com/entry/2018/10/17/023920
でも私はしぶとく逃げ果せて、
金曜日に颯爽上海に逃げ込んだ。
でも、彼は北京に帰らず私と彼の攻防は強制的に続行されることになった。
同居人をはじめ友人たちは私にボスと会うなといった。
異常な状態で、危険すぎるからだ。
そうこうしてるうちにも絶え間無く連絡は来て、早く上海から戻ってこいという催促は止まらず。
しぶしぶ上海から帰ってきた次の日、
ボスと夕飯を一緒に食べに行くことになった。
承諾したことを同居人は怒り狂っていたけれど、アイドルの力も借りて安全に会えるように手はずを整えた。
(アイドルのことについては登場人物の記事参照)
なぜ私がそうまでしてボスに会いたかったのかというと、それは本当に下らない話なんだけど。
ちゃんと「さよなら」が言いたかった
それだけだ。
ボスのことを先生として、思い出話の一つでもして、感謝の気持ちと別れの言葉を伝えたかった。
北京のキラキラした夜の、私が尊敬した先生として。
また中国に遊びにきた時、気軽にご飯でも一緒に食べれるような関係になんとか持って行きたかったのである。
そのために「先生」への感謝の手紙も書いて、簡単な贈り物も用意した。
ご飯食べてこれを渡して、ちゃんとお別れの言葉を言って、アイドルと一緒に帰る。
それでこの不毛な鬼ごっこもおしまいにできると考えていた浅はかな私をぶん殴って、チベットあたりまで吹っ飛ばしたい。(単にチベットに行きたいだけ)
でも、そんだけ整えて待っていたのにその日連絡はなくて。
電話もメッセージも連絡がつかなかった。
それで次の日の夕方6時。
ボスから電話がかかってきた。
ボスは昨日済南に行っていたらしい。
私の住む町の隣町だ。
済南にはボスの愛人(と噂される女性)が住んでいるから、昨日はそちらでお楽しみだったのだろう。
「あなた今なにをしていますか?」
とボスがいつもの調子で問いかけたが、私は昨日すっぽかされたことにとにかく腹を立てていたので。
「友達とご飯食べてます」
と、嘘をついた。
いつもならそれで引き下がる。
筈だったのに。
「じゃあ、私も食べるのでご飯食べ終わったら私のホテルの部屋に来てください」
ときた。
頭の中の線が何本かキレていくのがわかった。
ふざけんなよ。
私はデリヘルか?
食うもん食ってやるだけやりに来いってか?
その後は適当なことを言って電話を切った。
義理と礼儀を守って、真面目に先生としてお別れしようとした自分が馬鹿みたいだと思った。
カバンに入ってた手紙と贈り物をゴミ箱に捨てて、二,三歩歩いたら涙が出てきた。
なんだこれは。
私はボスを尊敬できる先生として見ていて、
先生としてボスのことを心配したり気遣ったりしていたが。
彼にとって私はいつでも手を出せる愛人予備軍に過ぎなかったというわけだ。
悔しいなあー!
そう、色眼鏡を外してみれば、ボスは金持ちになった途端、貧乏の頃に支えてくれた奥さんをないがしろにした挙句外国に追いやり、30を超える娘がいながら、22の私に手を出そうとしたとんだ変態クズ野郎なのだ。
おお、文字にするとインパクトがすごいぞ!
非常に残念だけど、
私の中でボスのメッキは剥がれ落ちて、若い女に執着する醜い姿だけが残った。
いい友達か先生みたいな愉快な関係は終わってしまった。
ものすごく残念だけど、それは変えられない事実なのだ。
そんなとんでもないゴミ野郎のボスだけど、
このボスから逃げ回り、なんとか「先生」と「生徒」という関係を守ろうとあがきまくった4ヶ月間。
沢山の中国人にお世話になり助けられた。
6月のあの日。
最悪な気持ちで帰宅した夜から、
自分の身を(貞操を)守るために文字通り命がけで中国語を勉強して、その中国語を使って沢山の人に助けを求め、沢山の人に自分の気持ちを説明し、沢山の人に知恵を借りた。
確かにボスは最悪だったけど、
ボスがロクでもなかったお陰で私は命がけで中国語を勉強できたし、身に付けることができた。
だから、
本当は同居人に言われた通りに警察に行ってセクハラで訴えてやりたいけどそれは勘弁してやるし、趣味の悪いハワイ土産は捨てずにまだしばらく飾っておいてやろうと思う。
さよなら、先生。
そう言いたかったんですが、すでにあなたは変わり果ててしまって、それはかないませんでした。
だから、ここで言いますよ。
さよなら、先生。